私たちの解体作業が全体進行の要 ~公私ともに成長できる会社を目指して~
新海 宗昭 氏

株式会社友和建工
代表取締役社長
新海 宗昭 氏(府中調布支部)
【会社概要】
東京都府中市押立町5-14-27
設 立 1991年 1 月
従業員 27名
事業内容 建設業(土木工事・内装解体工事)
https://youwa-kenkou.com/
「いろいろ考えたのですけれど、やっぱりいつも通りの格好で」と、はにかみながら作業着に袖を通す新海宗昭氏(府中調布支部)。インタビュー後の写真撮影でのひとコマである。言葉の一つひとつに身体性が伴っており、相対していて安心感ある訪問時間をいただけた。
友和建工は父君が土木工事業として創業され、宗昭氏が引継ぎ内装解体工事へと事業拡張に成功。府中市と調布市の境に位置し、そばにある多摩川を挟めば稲城市。社屋は職人の住み込みもでき、食堂も備える。
そして新海氏は、近年の東京同友会で新設となった府中調布支部の初代支部長として準備期間1年をかけ、2018 年より2期4年間奔走された。2年目からはコロナ禍である。「コロナ禍中、本業は大打撃を受けまして、ここでようやく戻ってきました」と会話冒頭に柔らかく語る。
が、それは新海氏の覚悟ゆえ、なせることである。
父君は新海氏が中学生の時に創業。「大学まで行かせてもらい、好きにさせてもらったことに感謝をしています」と振り返る。しかし、当時の新海氏は家業が好きではなく、アルバイトで家業を手伝ってみても、自分は向いていないと感じていた。学生時代はその他に飲食業でアルバイトをし、貯めたお金でオーストラリア、マレーシア、アメリカ、タイなどへ。旅をしながら、各国の食べ物のユニークさに胸が躍ったという。大学卒業後の就職希望は飲食業であったが、通信教育の企業へ就職をした。
しかし、就職後早々に、父君から家業を手伝ってくれないかという連絡が入る。聞けば、事業が芳しくなく、借り入れも滞っているという。知らない誰かに家業を任せてしまうのであれば、自らが背負っていこうと覚悟を決めた。新海氏25歳のときである。ただ、父君にはひとつだけの申し入れをした。それは事業が軌道に乗った際には、飲食業をやらせてもらいたい、という想いであった。学生時代の海外旅行で味わった飲食のユニークな経験を、日本に戻せないかと描いていたのである。
25歳で家業に入り、現場に入る日々。しかし、まわりからはどこそこの建設会社がつぶれたなどをよく耳にした。新海氏は会社がつぶれてはもともこもないと現場を引き、経営に携わることを即決。職人を遊ばせていてはもったいないから仕事を入れよう、が言わば当時の常識であった。しかし、それら選ばない仕事によって利益損失が生じ、資金繰りに影響が出ていたことを発見。「怖さと不安を抱えながら仕事先を選ぶようにしました。もちろん最初は父と母からも反対をされましたが、しばらくすると任せてくれるようになりました」と振り返る。これが奏功し、事業立て直しのめどがつくこととなる。その矢先、新海氏29歳のときに父君が急逝。「いま思えば取引先も従業員も様子を見ていたと思いますが、よい意味で我を出さずに向き合ったので信用をしていただけたようです」と間を置き、「有限会社から株式会社への移行は父が夢見たことで、見守ってくれていたら私も心が安まります」と語る。そして、新海氏はさらに3年間で事業を軌道に乗せるべく邁進していくことなる。
果たして33歳のとき、個人事業主として調布市に飲食店を開業。業容転換など徒手空拳の日々を過ごすも、店舗・本業・家庭と様々な要素がからまりあい、4年後に継続困難と判断。パートナーに事業譲渡をした(店舗コンセプトは当たり、現在店舗は安定経営中)。「当時は両立できていたと思っていましたが、いま思えばできていなかったですよね」と恥ずかしそうに微笑む。
本業では設備投資の必要がなく、人材と技術とバールがあればできる内装解体業に魅力を感じ、事業拡張。若い新海さんの呼びかけに応じ、若い職人が集まった。その勢いに併せて、引き上げてくれる商業施設とのご縁も出来た。そして迎えたコロナ禍。飲食店向けの作業は打撃を受けたが、オフィス関係のマーケットへの展開を心がけた。「しかし、技術力だけでは営業力のある会社に使われることになると痛感しました。もっと背伸びをして上へ上へとネットワークを広げているコロナ禍明けです」。「解体で滞ると、他の作業が全て止まるのですから私たちの仕事は依頼主にとっての要」と目が輝く。
そのために出来ることは職人との関係づくり。自分のことだけではなく、作業環境全般に目を配れる人材育成が大切なのである。「社屋に住み込む職人たちと過ごすと、アットホームな雰囲気も彼らにとって魅力でしょうが、彼らの生活を安定させたいと真に思います。そのために社内整備をしていくことが私の次の課題」。「次の後継者を育てていくこと。この会社を継ぎたい、なくなるのはもったいないと社員から思ってもらえたら嬉しい」と父君制定の社訓が貼られ、夕食のあたたかい香りがただよう食堂で新海氏は夢を語った。