『ものづくり』と向き合い、 現場のお困りごとを解決し、 夢を育てるパートナーでありたい
野平 和宏 氏
有限会社 ヤヘイ工販
代表取締役
野平 和宏 氏(豊島支部)
【会社概要】
設 立 2 003 年 7 月
従業員数 6 名
事業内容 工具・伝導要品・省力機器、測定機器、物流機器の販売(及び、パーツフィーダー、超音波洗浄機、パーツ整列、各種自動機設計製作から各種部品加工~工事全般)
所在地 埼玉県川口市安行領根岸 484-1
H P https://yaheikohan.jp
アソビは大切だ。たとえば自動車のハンドルにはアソビがある。きちきちのハンドル操作となるとかえって運転に支障がでる場合もある。そのためにハンドルにはゆとり(スペース)が持たされているのだ。
おおいにアソビを活かそう。そんな日々との向き合い方にあふれているのが野平和宏氏である。「遊びも仕事もなんだかんだとつながりますよ」と笑う。
ヤヘイ工販という社名には由来が3つある。ひとつは高校時代の野平(のだいら)青年が友人たちから”ヤヘイ”と呼ばれていたこと。もうひとつはヤヘイ工販の所在地、川口市には”弥平”という地名があること。最初に口座を作った金融機関が弥平支店であったことである。さて、ここからも察することができるのは野平氏がご縁を大切にされる方であろう、ということだ。
ヤヘイ工販は2003 年に野平氏が創業。それまで氏は祖父が創業した工具販売商社に在籍。事業の一部を引き継ぐことになったのである。社屋もご縁から。創業手続きをして、事務所をどうしたものかと模索していた際に、たまたま渋滞している道のわきに目をやるとちょうどよい物件が。
大家さんに連絡をし、懐事情も開陳したところ「あら、なら応援するわよ」との回答。
それ以降、家賃は上がるどころか、年々下げてくれたと言う。加えてヤヘイ工販の看板も作ってくださった。そして今年の3月、ご縁が重なり、文字通り自社社屋となった。
しかし創業当初、突然の難関も訪れたという。「まさに、そうは問屋が降ろさない、ということわざを身をもって知らされました。仕入れ先との信用関係です」と野平氏。工具の卸売りをしていた祖父創業で親族が経営をしていた会社ではあったが、野平氏の会社とは新たな信頼関係の構築を求められたのである。「創業当初十分な預り金を入れることもできず、すぐに仕入れ上限に達してしまう。それで、仕入れ先の営業担当さんが始末書覚悟で超過販売をしてくれ、なんとか商いを続けてこられたのです。本当に有難かったです」と語る。分厚いカタログをいくつも車に積んで、それぞれの工具の知識を頭に入れて取引先を飛び回ることができたのも、仕入れ先との、そしてモノづくりの現場とのご縁である。転機もやはりつながりから。川口市は製造業者数が多く、工具屋も多い。その中で、モノづくりの現場に寄り添ってきた野平氏には様々な相談が入ってきたのである。そして、加工業をしていた会社の窓口をヤヘイ工販が受け持つこととなった。「モノづくり現場って、お困りごとが本当にたくさんあるんです。加工の相談と解決も承れるようになり、利益の幅も大きく改善しました。私自身、図面を読めるようにもなりましたしね」と嬉しそうに語る。
アイデア溢れる野平氏を支えたのはアソビであろう。社会人となり自動車レースにも出るお客の勧めで自動車改造にはまったことがある。「最初は軽い車の改造で、お客さんから、どう調子は?なんて聞かれて。いいですよ!レースには出ませんからねってやりとりがあったんです。でも結果的にレースに出るまではまってしまいました。エンジンパワーの出し方を研究して、試して、ログをとって」と笑う。それ以外にもテニス、釣り(船舶免許も取得)と大いに遊ぶ。釣りにいたっては、透明な美味しいイカを家族に持ちかえるために水槽を改造するほど。そして現在のゴルフ。「ゴルフそのものもさることながら時間を共にする同友会仲間との語らいが楽しい」とほほ笑む。
氏の同友会の出会いは現豊島支部長 山本氏より。リーマンショック直後で販路確保のため山本氏に相談をしたことがきっかけで、経営の勉強はどうかと同友会を勧められた。「豊島支部の大例会に参加をし、テーマがストックビジネスだったのです。いわゆる卸売りがする御用聞き(フロービジネス)ではなく、自社のサービスや商品をもってはどうかという切り口。自社戦略を学ぶ場所だと思い入会をしました」。その後、成文化セミナーへ参加をし、自社のあり方を徹底的に見つめ直した。
「当社は加工商社を目指したいと考えています。加工自体は自社のつながりを活かして協力会社に頼る。そこでのキーワードがIMT」と弾むような声に。IMT は『いいものつくろうよ』という合言葉。「コロナ禍では、この時期だから新たなことに挑戦をしようというお客様が多く、そのお力添えができました」。これらの経験を社員と共有し、川口市で一番になれることを目指すためのシンボルとして『IMT』に命が吹き込まれたのだ。
そして、豊かなつながりから自社製品を有し、野平氏は他業界へと挑戦をはじめた。アソビのアンテナは常に、そしてほどよく未来へ向けられているのだ。