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中小企業家群像

「生涯顧客戦略」へ、さらなる飛躍を! ~女性ならではのエコ経営で~
ベースシステム株式会社 平間 律子 氏(大田支部)

ベースシステム株式会社(大田支部)
代表取締役
平間 律子 氏
東京都大田区大森西3 丁目31 番地8 号
設  立 1984 年
資 本 金 4800 万円
社 員 数 29 名
業務内容 自動車整備工場向けのパッケージソフト(整備・板金・車両販売・会計) の開発・販売、全国の整備工場を対象にした販売・サポート

始まりは、大田区梅屋敷のご主人の実家である駄菓子屋の一角に置かれた一台のインベーダーゲーム。近所の子どもたちが押し寄せて繁盛した。夏、遊びに行った伊豆のホテルで、ゲーム機のリースを提案。2年間で800万円の利益が出た。商売の面白さを学んだ。

律子さんは静岡から東京の大学に進学した時、共通の友人が企画した食事会で、ご主人となる平間潤一氏と知り合った。氏は横浜国大工学部の学生。物理や宇宙の話をする時の潤一氏は輝いていた。交際中も将来の夢を二人で話すことが楽しかったそうだ。

その後二人は夢を持ちながらも一旦は就職の道を選択する。当時はまだ、オフコン全盛期でアセンブラ言語をパンチしながら、ソフトを作る時代から少しずつパーソナルコンピュータに移行する時代であった。プログラミングは論理脳の潤一氏の性に合っていた。

転機が訪れた。潤一氏は元々車好きもあって友人の実家の自動車整備工場用請求書ソフトを作った。通常市販パッケージだとソフトだけで5~600万円はするものが、パソコンのハードを入れても200万円程の価格で動かせるというので大変喜ばれた。「これはいけるかも」ということで同じマンションに住む整備工場の経営者に「試してもらえませんか」と、交渉。交渉主はいつも律子さん。お客様第一号の誕生だ。そこからちょっぴり自信がついて、販社の紹介で愛知三菱に1500万円を提示したらあっさり受注できてしまった。驚きながらも急遽1984年に会社をつくった。

つくったものの整備工場向けのソフトも10本程度は売れたが後が続かない、定収を得るためにソフトの下請などをこなすことが多くなっていた。埼玉のTという会社がそのソフトを売ってくれと。車の予備車検場をやっている会社で、月に2、3本から始まりコンスタントに1000万円入ってくるようになった。しかし、MSーDOSからWindows に切り替わる時こちらに内緒で作り変えられてしまう。著作権侵害で訴訟し和解で1500万円はもらったが惜しい思いと、市場には残りたいという意地でベースシステムのブランドを作るため拠点展開した、しかしその体制を維持するために借金が数億円にふくれあがった。ボーナスも出せない状態で社会保険・税金を滞納するようになり怖くて月末になると公園で時間をつぶすこともあった。リスケを断行しようやく一息つくことができるようになった。

同友会には、潤一氏が20年前1997年に入会した。大田支部の㈱サヤカの猿渡さんから「会社のドメイン」をつくれと指摘され、いろいろな業種に手当たり次第に広げていた仕事を自動車整備に絞った。2008年人生のパートナーであり同じ夢を持って会社を創業した同志、そして業務システム全部を見ていた潤一氏をガンで失う。亡くなる前に「ベースシステムを頼む、お前なら大丈夫」と遺言されていた。経理はやっていたが、経営には自信がない。リーダーシップもなく、引っ込み思案な自分に務まるのかと不安な日々が続いた。

「ナンバー2のF取締役を頼りにやれ」とも言われていた。その言葉通りにF取締役に任せていたが業績は落ち、社員も辞めていく。3年間で累積8000万円の赤字。友人からF氏を辞めさせないと会社を乗っ取られると2年間言われ続けた。ある時盛岡営業所を辞める社員から話があると。「F氏がいると会社は潰れる。社長もどこかで決断した方がいい」と打ち明けられる。決断した。F氏の口癖である「私のやり方に反対するのなら会社を辞めます」を逆手に取り、「わかりました、それで結構です」と。この時律子さんは本当の社長になれた、自分の会社をつくっていけると感じた。F氏の恐怖政治が終わり、社員がのびのびと仕事ができるようになり、その年800万円の利益が出た。全員参加の会社経営が始まった。「私にリーダーシップがないことが強み」と笑う律子さんに経営者の自信を見た。辛い時に支えてくれた同友会の先輩方への感謝の気持ちも忘れていない。社長室に飾られている先代社長潤一氏の写真が今の律子さんを見つめている。

お会いして感じる天真爛漫な雰囲気の平間さんには実は波乱万丈のドラマがあり、しなやかで芯の強い女性経営者の道を歩み続ける姿勢にエールを送りたい。
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