経営者は正しいことをやれ ~前人の失敗から学んだ経営哲学~
電子磁気工業株式会社 及川 芳朗 氏(北支部)
電子磁気工業株式会社(北支部)
名誉会長
及川 芳朗 氏
東京都北区浮間5 丁目6 番20 号
創業 1957 年3 月
資本金 3600 万円
社員数 84 名
2003 年6 月、上海に合弁会社設立
業務内容 磁気を応用した多種類の検査機器・生産機器・評価機器の開発・製造・販売
本社受付に取材来訪の主旨を伝えると、4階の会議室に案内された。プレートに「悟空間」とある及川さんの会長室は向かいにあった。「受付は上手に対応しましたか」と及川芳朗さんから質問。社員への気配りを感じる。
会社の創業は1957年、航空機のエンジンや主翼・尾翼などの部品を検査する非破壊検査装置を製造したことに始まる。及川さんは62年に技術者として入社する。
岩手・北上の出身、前職は川崎にあった電気関係の会社に設計として入社していた。その会社は労働争議や経営者の公私混同もあり倒産した。次の就職は、デンソーか創業間もないこの会社かの選択だった。面白そうだとこちらを選んだ。
電子磁気工業は94年までは分社していて、一社を本社としていた。
勤務していた会社の業績が悪化していたが、79年及川さん39歳のある日、恵比寿の料亭に、協力会社の社長と一緒に呼ばれた。そこには当時のオーナーと各社の社長が顔をそろえていた。再建の役を打診された。腹をくくって、「私の好きなようにさせてもらえるのであれば」とその申し入れを受諾する。「自分の考えに合わない人はやめてもらう」との決意を秘めていた。30名いた社員は、5名になった。
毎日即席麺を食べながら、会社に泊まり込んで必死に頑張った。昼間は営業打合せ、夜は設計図面をひく日々であった。3年目にようやく安定軌道に乗った。
その忙しい中でも、趣味である山登りを月2回続けていた。土曜に新宿を出て月曜の6時に戻る。山手線を2周しながら、仮眠をとり出社。「体力があったし、忙しいが充実していた」と懐かしそうに語る。
一緒に頑張っていた取締役が倒れるなど不幸もあった。その穴埋めもしなければならず「中小企業の経営者は、すべてを知らなければならない」と気づく。
バブル崩壊後、分社5社のうち、3社が大きな赤字、本社は経営を放棄してしまった。取引銀行から再建案をせまられる。生き延びるには、120名いる社員を60名にする必要があった。今やらなければ、会社は1年ももたないと、2カ月で40人減らした。「厳しい顔になっていたと思う。あの時が一番苦しかった」と当時を語る。
前のオーナーは「銀行には本当のことを言ってはいけない」が口ぐせだった。及川さんは失敗した経営者の逆をいこうと、銀行とはパートナーとしてつきあい、数字は社員にも全てガラス張りにする会社を目指した。借り入れも4年目には完済できた。「目標は必ず達成する」「常に危機感を持つ」ことが、その原動力だった。
同友会の入会は、名古屋の知人から採用に悩んでいるのなら、こういう会があると紹介されたことによる。当時文寿堂㈱の松本さん(故人)や荒賀さん(故人)という先輩の追っかけをして、経営の悩みをぶつけ、解決していった。
「及川さんの会社は、いい会社だから」と言われる。「そういう会社にするには、どれだけの努力をしたか」と言い返したくなると。今も「社員が、安心して仕事に打ち込み、それを楽しめる会社」を目指している。
最近では、非破壊検査装置の他、着磁石脱磁装置や焼入れ判定機といった、先方の要望に合わせた特注品も生産している。客の要望に応えられる技術を持つ社員が育つ企業風土が完成している。
長年の技術振興に対しての実績が認められ、及川さんは平成27年度東京都功労者を受賞した。
「先程の会長室は、及川さんが悟りを得る空間ですか」と聞くと「それもありますが」と前置きして、社員を呼んで、仕事の進め方や考え方について「君それでいいのか」と質問し、社員にも悟ってもらう部屋でもあると説明された。「昔は短気でしたがね」と笑う。
これから全ての業種で「本物しか残らなくなる。そこで生き残ったところはよい会社なのです」と、確信を持った言葉で締めくくられた。こういう先輩にくいついて学ぶことができる同友会は「値千金」の会と言える。